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    神田川1 2013年01月08日 神田川 トラックバック:0コメント:0

    神田川

    はっきり言って「何回か歩かないと面白さが理解できないかもしれない」
    実は3日間かけて下流を歩いたんですけれど、全く面白さがわからないんですよ。江戸時代の水道の話とか、水害の話とかテーマを決めて、ネタを仕込んで行ったほうが良さそうです。とりあえず、川沿いに掲示された碑文を列挙して、神田川の歴史をつないでみましょう。

    神田川の河口を見るには「川向こう」にはなりますが両国駅が一番近いです。

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    両国駅
    上野駅を小型にしたようなクラシカルな駅舎です。
    関東大震災により焼失したため1929年に現在の駅舎が完成した。このころ隅田川に橋が架けられておらず、総武線は両国がターミナル駅であり、新宿・渋谷より繁盛していたとのこと。
    現在は「大相撲の町」ぐらいしか印象がありませんね。

    駅前の交差点を渡って隅田川に出ます。川岸はコンクリートで固められていますが、中央区にあった「隅田川テラス」が続いているらしく、ここにもあります。

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    よい散歩コースというか、最近ではジョギングコースとなっています。両国橋を渡ります。

    両国橋

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     隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた。
     明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。 また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。
     明治維新のころ、ここには新柳町・元柳町・横山町・吉川町・米沢町・薬研堀町・若松町があったが、昭和7年合併して日本橋両国町となり現在に及んだ。
     維新後百年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。
      ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため、町会の総意によりこの碑を建てた。
      昭和44年11月3日 中央区日本橋両国町会 建碑・施工 青山石勝ガーデン

    岸の反対側には、神田川河口が見えます。あそこから今回の探索がはじまります。

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    隅田川に架かる両国橋を渡ってすぐに右折すると神田川の防潮堤が見えます。

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    ここに柳橋がありますが、袂に碑文が2つ。これをつなぎ合わせると以下のようになります。

    柳橋

     柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へと注ぐ全長約25Kmの都市河川です。
     柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(一六九七)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
     その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、"柳橋川へ蒲団をほうり込み"と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
     この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、『川口出口之橋』あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから『矢の倉橋』と呼ばれていました。

    『柳橋』の由来については、
    (1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
    (2)柳原堤の末にあったことに由来する。
    (3)橋の袂に柳の樹があったことに由来する。
    このように諸説ありますが、真説は不明です。

     明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる場所であったようです。
     明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(1929)に完成しました。

    柳橋の諸元
    所在地 中央区東日本橋二丁目 = 台東区柳橋一丁目 (神田川)
    形式 タイド・アーチ橋
    橋長 37.9m
    有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
    建設年次 昭和4年12月(復興局施行)

     完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として、区では平成3年に、優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。 

    平成4年1月 東京都中央区
    平成14年3月 中央区教育委員会



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    関東大震災の直後、内務相・後藤新平は懇意にしていたニューヨーク市政調査会専務理事ビアード博士に電報を打つと

    「土地を確保せよ。勝手に家を造らせるな」
    「橋を設計せよ。道路を確保せよ」

    という返信が届いたとか。こうして後藤は必要な幅員の2倍を主張して設計させていったとされております。
    おかげさんで、こうして残っております。確かに両側に十分な広さの歩道を持ち、現在に立派に通用する規格でしょう。形はともかくとして・・・ですが。

    結局、後藤の復興計画は議会審議の過程で縮小に次ぐ縮小。しかし関東大震災や大東亜戦争で消失したこの地域は「昭和通りの建設」など、かなり思い切った復興計画を行えたようです。
    これには後日談があって、第二次大戦後、昭和天皇陛下が戦災について「後藤の復興計画が成されていたら、戦災はもっと軽減されていたのではないか」とコメントされたといわれています。


    柳橋袂の船宿と屋形船

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    こうして、橋の紹介ひとつだけで第1回目が終了してしまいました。神田川に架かる橋は140はあるはずですので、終了予定は・・・ひぇぇ・・・
    柳橋から見た神田川河口の図

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    神田川2 2013年01月11日 神田川 トラックバック:0コメント:0

    柳橋を越えると関東郡代(代官)跡の記念碑に遭遇します。写真は「郡代屋敷跡」ではなくて、屋敷風公衆便所であります。

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    そもそも伊奈氏の「関東郡代」とは?

    従来、関東郡代と考えられていた伊奈氏は、関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する関東代官だったとされている。行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っている。
    結構な権力を有していたと想像されます。

    郡代(代官)屋敷跡
    所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目付近
    江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
    関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)で焼失し、この地に移りました。
    伊奈忠尊が罪を得て失脚した寛政四年(一七九二)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。
    文化三年(一八〇六)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
    平成六年三月、中央区教育委員会

    「伊奈忠尊が罪を得て失脚」とは、どういう事だったのでしょう。調べてみました。
    天明の大飢饉で打ち壊しがおこり、鎮圧できなかった奉行所は関東郡代に協力を要請。郡代である伊奈忠尊は各地より米をかき集め放出することにより事態を沈静化させた。
    ところが、米の買い付けなどに運用した資金15000両が幕府へ支払い困難となり延納を願い出たが幕府はこれを拒否。幕閣との間に対立が起きた。
    幕閣との対立を諫める家臣らの処罰を理由に、所領没収永蟄居となる。

    これだけを読むと、ちょっとかわいそうですね。世襲となっていた関東代官職を官僚機構に組み入れるための策略だったのかもしれませんね。

    しばらく歩くと、といっても都内のことですからたいした距離はありません。一番最初に大きな通りにぶつかるのは昔の「水戸街道」、現在の国道6号線です。

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    橋の名前を浅草橋といいます。浅草橋は浅草の橋ではなくて、

    下町まちしるべ 旧浅草橋
     浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川にかけられた橋の名にちなんでいる。
     江戸幕府は、主要道路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
     ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。

    浅草橋を過ぎると前回出てきた「柳原土手」です。
    柳原土手は、この浅草橋から秋葉原の和泉橋まで、約1Km続いていたそうです。

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    柳原土手跡
    『江戸名勝志』に”柳原土手西は筋違橋(元の万世橋)より東は浅草橋迄の間、長さ十丁余(約1.1キロメートル)つづけり。柳樹多くあり”とあり、昔このあたりは土手で柳の並木がありました。『柳森神社記』によると長禄2年(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに、柳を植えさせたとあります。又享保(1716-35)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。
     昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取りはらいお救い米を貯蔵する籾倉を建てました。安政3年(1856)この籾蔵は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町家ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって元禄8年(1695)はじめて社が完成し繁昌したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関東大震災(1923)で社殿は焼失しましたが再建され境内に力石などが残っています。又土手は昔、よしず張の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治6年(1873)土手は崩されました。
    平成元年三月、千代田区教育委員会

    想像してみると
    「歩道つき2車線ぐらいの道路の幅の川=両側に土の土手があり=土手の上には柳の木が並んでいる」
    春だったら、うららかな川の土手という印象でしょうね。

    浅草橋の次は、和泉橋です。先ほどの国道6号線は「水戸街道」、今度は国道4号線で奥州街道あるいは日光街道となります。要するに東北道です。
    首都高が上を通っていますので、大きな通りです。ここに、柳原土手跡の碑と和泉橋の碑がありました。

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    この和泉橋とJRの鉄道橋の間に柳森稲荷があります。

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    この神社は、地域の神様の集合体という風に、お稲荷様だけではなく、まあいろんな神様が並べられています。

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    ここを過ぎれば、秋葉原の玄関口「万世橋」に到着します。

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    神田川3 2013年01月15日 神田川 トラックバック:0コメント:0

    神田川も第三回目となりましたが、実は今回の報告が最初の探索でした。
    えらく寒い1月4日の昼、所用があって秋葉原に出かけました。MicroSDHCの32Gがもう一枚欲しかったのです。
    前回、台湾メーカーのを購入しましたら一週後にあえなくステルベンされました。今回はSanDiskのにします。
    無事SDを購入して、夕方に神楽坂で待ち合わせをしていますので、何をして暇を潰そうか?
    万世橋から歩くのが一番いいでしょう! ということで始めました。

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    秋葉原←→御茶ノ水間は、以前に何度も歩いております。今回はちょっとちがった視点で眺めてみましょう。

    秋葉原=水道橋間は、駿河台の台地を掘削して神田川の流路を変えた地点といわれております。

    地形はどうでしょうか? 国土地理院の5mメッシュをカシミール3dに取り込んで描画してみました。

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    なるほど、神田川の流路だけ掘られたように凹んでおります。

    相生坂から聖橋へ
    結構な坂道です。湯島聖堂がありますが、この路地が昌平坂です。

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    江戸時代:優秀な学生のみが通ったという昌平黌が合った場所です。実際、学問所はどこにあったかというと、今の医科歯科大学キャンパスに相当するそうです。

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    聖橋を越えて、

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    御茶ノ水橋を越えて、緩やかながら登りは続きます。

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    地図上の頂点は、「聖母美術院」の手前付近。

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    ここが標高約19.0m地点で、頂上にあたります。
    ここからは、水道橋に向けて下りになります。

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    国土地理院の5mメッシュでも、GPSの記録でも最高点20mぐらいしかないんですが、本当でしょうかね。 それでも、秋葉原から飯田橋まで台地を掘削したわけですが、2.5Kmも掘ったことになりますので結構大事業だったでしょうね。

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    神田川4 2013年01月15日 神田川 トラックバック:0コメント:0

    文京区関口までは、駆け足でレポートします。

    まずは、小石川橋のところで分流する『日本橋川』

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    内堀の北側を通って日本橋三越の横の川です。
    そうです。日本国道起点のある川です。

    神田川の流れの変遷は、
    1.太古ここから内堀方面を通って江戸湾の日比谷入江に流れていた。
    2.太田道灌が日本橋川を作って隅田川へ流す流路を造った。
    3.徳川幕府が駿河台台地を掘削して神田方面へ流す。
    おおよそ、このような経過をとったそうです。
    だから、この日本橋川は神田川の2番目のの形態だったと言えます。もう少し調べましたら追記したくなる話ですね。

    飯田橋。正確には飯田橋は外堀に架かる橋で、神田川に架かるのは船河原橋となるのでしょうか。

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    神田川は、相変わらず首都高の下ですが、北上して池袋線の下を通っていきます。

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    興味を引いたのは『江戸川橋』という呼び名。この地域の人たちは神田川を“江戸川”と呼んでいて、その名残で“江戸川橋”と呼ばれているとか。

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    知りませんでしたよ。昔はご近所さんだったのに、てっきり、「江戸川 ≠ 神田川」だと思っていました。

    江戸川橋からしばらくは、江戸川公園が続いていて、よい散歩コースとなっています。

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    椿山荘や学校が多く昔から恵まれた環境でしたが、田中角栄の「目白御殿」が運動公園となって、さらに価値が上がったかもしれません。

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    椿山荘を過ぎると松尾芭蕉の芭蕉庵があります。

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    松尾芭蕉って深川の方の人だと思っていたのですが、こんなところにも住居があったんですね。
    「草の戸も住替る代ぞひなの家」
    この句好きです。この句は深川の住居の事だと思いますが。

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    「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也・・・」いいなあ。これ小学生の時暗記してましたね。今となってはさすがに怪しいです。

    芭蕉を過ぎると、時代はぐっと新しくなって
    「貴方はもう忘れたかしら 赤い手ぬぐい マフラーにして」
    そう、かぐや姫の『神田川』です。やっと登場です。

    今回、西早稲田周辺を歩いてみて、イメージと全然違うことに驚きました。

    A.まず川幅が広い。したがって暗さがあまりない。

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    B.両岸には歩道があるので、下宿の2階から見下ろせるような感じではない。

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    C.そもそも下宿屋というよりは、マンションが建ち並び、今となっては貧乏学生が銭湯に通うような地域ではない。

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    学生運動+神田川=早稲田周辺だと思っていたのですが、違うんでしょうかね。
    この歌詞を書かれたのは、喜多条忠さんで、彼の生活を汲んでいるといわれていますが、喜多条忠さんが住んでいたのは早稲田周辺ではなかった?
    いや、やはり時代の変遷だということなんでしょうね。 やっと見つけたカラオケの背景のようなイメージ映像。

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    川岸を見ると新規の橋を架けているようです。今調べましたら「環状4号」のなれの果て。

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    北側をみると用地買収は既に済んでいるのか、荒涼とした風景です。

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    一件だけ残った雑貨屋さん。

    この道の北側方向は、日本女子大の横に抜けて、目白通りで不忍通りに接続するとか。南の余人町あたりが完成すれば外苑東通りに接続。そこまで行けば便利になるでしょう。
    いろいろ物議を醸す方でしたが、こういうところは良くやってくれました前都知事。

    都電荒川線
    よくぞ残ってくれた都電ですが、どうせならもう少しクラシックなやつを走らせたらどうでしょうかね。

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    昭和世代だと笑われますかね。

    高田橋
    右側に暗渠が開口しています。おそらく妙正寺川からの流れがこれでしょう。

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    そうして、とうとう高田馬場に到着します。

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    次回の探索のため、もう少し先までいってみましょう。

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    この商店街というか飲み屋街を抜けると

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    東京富士大学。知らなかったこんなところに大学があるんだ。

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    川の両岸に沿って結構大きいです。川をまたぐように大学構内橋が架かっています。

    これを越えてしばらく行くと、下落合付近で、すぐ北に妙正寺川が流れています。

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    妙正寺川は昔はこの辺りで神田川に流入していたとのことです。

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    現在は一旦ここで暗渠となり、先ほどの高田橋付近で神田川に合流しています。

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